山岡荘八著『織田信長』が原作のTV時代劇スペシャル『濃姫(のうひめ)Ⅱ』が放送されるそうです。



もはや歴史上の人物というよりも、《その存在こそが伝説》と化した感のある、織田信長!
その信長伝説の生みの親ともいうべき存在が、歴史小説の大家山岡荘八氏の代表的な著書「織田信長」にある事は、間違いないと思います。
氏の描く「織田信長」は、織田信長に関する代表的かつ唯一無二と言っていい、史料として知られる太田牛一おおた・ぎゅういちフリー百科辞典・ウィキペディア・リンク済み信長の家臣で、弓が上手かったらしい……筆まめで?いわゆる信長の右筆は誤りで、右筆として使えたのは丹羽長秀や豊臣秀吉の時だそうですが信長の死後、自分が残した日記などから起こしたとされる、「信長公記フリー百科辞典・ウィキペディア・リンク済み(しんちょうこうき・のぶながこうき)」を元に描かれた、今日の最もポピュラーな信長の物語です。
しかし、太田牛一はある意味で非常に律儀な人で、自分が参加しなかった合戦や事件の事など、他者からも直接耳目に入らなかった事は、残していないと言われています。おかげで、かなりの抜けや穴があり、それを後年の人々はその時代や、後に発見された資料を基に、新たに組み立てて現在に至っています。


織田信長(1) 無門三略の巻(山岡荘八歴史文庫 10)織田信長(1) 無門三略の巻(山岡荘八歴史文庫 10)
(1987/09/08)
山岡 荘八

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特に有名なのが、江戸時代初期に書き起こされた小瀬甫庵おぜ・ほあんフリー百科辞典・ウィキペディア・リンク済みの太田牛一の著書などから、書き起こした「信長記(しんちょうき・のぶながき)」が有名で、後にはこれが一般に普及しました。
なお、現在では一般に混同を避けるために小瀬甫庵の「信長記」を敢えて『甫庵信長記』と呼び、太田牛一のものを『信長公記』とするようになっています。ただし、読み物として優れていた為に『甫庵信長記』は、当時からベストセラーとして民間にも広まっていました。

対して太田牛一の『信長公記』は、史料としての信頼性には一級品の折り紙が付いていますし、いわゆる軍記物としても面白いという評価ですが、一般的にはかなり無味乾燥なイメージが強いようです。
何しろ、当の甫庵は〈太田牛一を「愚にして直な(正直すぎる)」と侮蔑の意を込めて評して〉いたそうですから……。
この為有名な、「桶狭間の奇襲説」「長篠の鉄砲三段撃ち説」が流布する原因となった事は、かなり早い時期から(ものによっては刊行された江戸時代から……)創作改竄説が、指摘されたようです。ですが大衆が分かり易く、説得力のあるものを求めるのは、今も昔も変わらないようです。

そしてその辺は、ある種歴史学者ではなく、小説家としての、価値基準に山岡荘八氏も立っていたようです。
ただ実際に、近年に至るまで『武功夜話』などの新資料や、新たな検証結果が乏しかった事。また太田牛一の自分の知っている事実を述べるに留まるという、今日の研究者にとってはありがたい姿勢を、貫いてくれたおかげで、書かれていない部分に関しては、他の史料か想像で埋めるしかない!
その際たるものが、「当時の美濃を治めていた斉藤道三の娘で、当時の尾張とは敵対関係でありながら、まさに人質込みの《政略結婚》で、信長に嫁いで来た《濃姫(美濃から来た姫という意味で、後に『帰蝶・奇蝶』という名が知られましたが、蝶はともかく「帰」や「奇」は、幾ら人質とはいえどうもレッキとした、正室として嫁いで来た高貴な女性の呼び名としては、相応しく無い気がします)後には濃御前(信長の根拠地・岐阜城は、元美濃の国の主城であり濃姫の故郷でもある、稲葉山城跡に造られたので、その女主人となった人を、濃御前と呼ぶのは濃姫からの習いとして、当然という気がします)から安土御前(安土城に移ってから)とも呼ばれたようです》という信長の正室に関する記述が、ほとんどまったく婚礼以後、記されていない事です。

この為、近年までは結婚はしたけれど、早々に美濃に返された!とか、どこかの寺に押し込められて、早死にしたとか、正室でありながら放置されていた(当時はそういう事もあったようです)等々。
こう言っては何ですが、山岡荘八氏の「織田信長」に描かれている、美人の上にマムシ(父・斉藤道三の異名)の娘らしく剣術の心得もある。鋭敏で機知に富む賢夫人として、信長の良き妻として、常にその留守を委されて怠りなく。また主人の目の届かない、家臣や領民の女性・女房達への気配りを忘れない、見事な女主人ぶりを発揮した!希有な女性だったと、信じたいところです。



濃姫〈のうひめ〉
天文4年(1535年)?-弘治2年(1556年)09 月19日?/慶長17年07月09日(1612年08月05日)?
戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。
斎藤道三の娘で、織田信長の正室。名は江戸時代に成立した『美濃国諸旧記』などから帰蝶(きちょう)とされる。

濃姫02

清洲城模擬天守横にある「濃姫之像」

〈後略〉


史実に残る、信長の家臣達の有名な女房達。
豊臣秀吉の正室、御寧々。前田利家の正室、御松。山内一豊の正室、御千代(見事にNHK大河ドラマの女性主人公が並びました!)などなど、戦国時代末期にこれらの女性達が、夫の武功に引けを取らない活躍をしたのも、彼女達正夫人がそのような女丈夫であったからと考える方が自然だと思います!
特に、成り上がりの尾張の信長から秀吉が活躍できたのは、彼女ら正夫人の時には内助を飛び出した、活躍が多かったからでは無いかと、推察されます。となればその最初の、いわゆる時代を切り開いた革命児とされている織田信長もまた、正夫人である濃姫を大切にしていた。大切にしなければならない理由、つまり自分が最前線で指揮を執っている間も、根拠地である本城が安泰だという安心感を、充分に与えてくれるだけの人物に留守を任せていると考えるのが妥当だと思います

山岡荘八氏の「織田信長」は、まさにその前提で濃姫を描いた、傑作歴史小説で有る事を、間違いでは無いと確信しています。
そしてそれを、TV朝日は以前にその名もズバリ「濃姫」と言うタイトルで、スペシャル時代劇として、山岡荘八氏の「織田信長」を原作とした上で、なんと「濃姫」目線で、信長と時代の趨勢を描いた作品を放映しています。



ドラマスペシャル「濃姫(NOUHIME)
~戦国乱世、織田信長に嫁いだ
女の半生~
テレビ朝日


〈2012年03月17日(土)放映済み〉

日本の歴史上の人物で最も人気が高い武将、織田信長。
謎の多い人物ではあるが、家臣だった太田牛一が著した『信長公記』という第一級の資料が残されており、現在、信長に関するさまざまな史実は、この書物を基に考証されている。

 しかし、その『信長公記』にさえ、ほとんど記述のない重要人物が存在する。信長の正室・濃姫だ。
 油売りから立身出世を果たした"美濃のマムシ"こと斎藤道三の娘であり、政略結婚で信長の正室として尾張に嫁いできた、濃姫。婚姻の事実は資料にも残されているものの、その後の記述はほとんどない。濃姫は、信長以上に謎に満ちた人物なのだ。

 この作品は、謎多き戦国美女・濃姫の人生に焦点を当てた、大型ドラマスペシャルだ。
 "日本一の大うつけ"とよばれながら数々の奇跡を起こし、天下統一を成し遂げた男・織田信長。その波乱の生涯を、最も近くから見ていた妻・濃姫。
 濃姫の人物像、信長との夫婦像を新たな視点から描きだすと共に、戦国という明日の我が身の運命すらわからぬ混迷の時代をたくましく駆け抜けた男女の生き様を綴っていく。

〈後略〉


そして、今回・2013年06月23日(日曜日・何と格上げです!)上記作品の続編が、放映されます。



ドラマスペシャル「濃姫・Ⅱ」~戦国の女たち~
テレビ朝日


濃姫201

濃姫、再び“鬼”になる!?
奇跡の武将・織田信長の妻“濃姫”の半生を描く
ドラマスペシャル第2弾!
戦乱の世を激しく、たくましく生きた姫を
観月ありさが再び熱演!!

濃姫202

〈後略〉


だ、そうです。
言ってしまえば、「期待しているので宣伝します!」と言う事です。


当然ですが、色々とネタバレ?満載です!


この山岡荘八著の『織田信長』では、濃姫は常に信長と共にあり、最期は同じく本能寺で夫の自害と首を渡さない事を助けるべく奮戦し、森蘭丸を始め他の僅かな護衛の兵士達と共に、信長と運命を共にします。
この壮絶な最期は、多くの人々の印象に残ったのか、その後長く「信長の正室・濃姫の最期」として、描かれてきましたが、近年「正室・帰蝶(きちょう)は、早くに離縁されたか死亡した」という説が有力となり、そのような内容の物語りも増えました。

もちろん、そうなると濃姫の存在自体希薄となり、扱いは軽くなります。
さすがに、いかに山岡荘八氏の最後の記述が、「~当時の記録に、大勢の男達に混じってただ一つの女性の屍体もあったが、それは28・9(歳)にも見える、艶やかな姥桜(うばざくら)で名前を〈おのう〉という老女(侍女)頭なそうな……と残っている~」とあったとしても、当時の状況から濃御前が共に本能寺で討ち死にというのには、かなり無理があります。

しかし、その影響は大きかったのか?実際の、現在の京都にある本能寺が、区画整理で移築される前に存在した場所の、本堂裏には織田信長・森蘭丸らの墓と共に、「濃という侍女ら信長公近従の者達~」刻まれた墓も、実在しました。現在は、分かりませんが……。
もちろんこの時の本能寺も、その後の何度かの建て替えの末のもので、それらの墓もいわば墓標のみだったのですが……。信長が、押し寄せる軍勢が明智光秀のものと知ると、「光秀は女や坊主どもには手をださん、早く落ちよ!」と、その時共にいた侍女達や寺の関係者更に茶会参加者(茶坊主)に、逃げるように指示した事は有名で、記録にも残っているようです。
しかしそこを敢えて、夫信長の矜持と自らの想いを持って、共に戦の中に倒れた……最後に攻め寄せた軍勢は、これも諸説有りますが濃御前とは親戚関係だった事は間違いなく、実際に濃姫の引き立てがあったのかどうかはわかりませんが、これも浪人から取り立てられた明智光秀

だとすれば、光秀はまさか濃御前が信長共にいるとは、共に押し寄せる大軍勢の前に立ちはだかるとは、思いもしなかった!
そうでなければ、彼女もろとも信長の首すら取れず、全てを焼失してしまったのでは、その後の展開に大きな問題が、立ち塞がります。さて、さすがに物語のような、劇的な最後でなかったとすれば、実際はどうだったのか?
常識的に考えて、信長が秀吉の要請に従って、中国・四国攻めの増援とした出陣したので有れば、正室はその本拠地である、安土城を守ると言う事になると思います。実際最近の研究と検証では、「安土御前」や「安土殿」と呼ばれる女性の名が、信長の縁者としてその母親や妹で有名な御市の方と共に、記されているそうです。



〈前略〉

『織田信雄分限帳』に「安土殿」という女性が、600貫文の知行を与えられているのが記載されており、女性としては信雄正室、岡崎殿に続き三番目に記載され、信長生母と推測される「大方殿様」よりも先に記載されていること、安土城の「安土」という土地を冠されていることから、織田家における地位の高さがうかがえ、織田信雄の亡き父・信長の正室にあたるのではないかとも考えられる。
また(「局」が「妻子の居住する空間」を示すことから、奥でもっとも権威のあった正室を「御局」と称したとも考えられ)、『織田信雄分限帳』に記載されているもっとも知行の多い「御局」という人物が濃姫という可能性もある。あるいは、信雄から見て父信長の正室である濃姫は、「大方殿様」の立場にあたるため、「大方殿様」が(土田御前ではなく)濃姫だとも考えられる。「安土殿」「御局」「大方殿様」のいずれかが濃姫だとすれば、この時点で生存していたことになる。

『氏郷記』『総見院殿追善記』などには本能寺の変直後、安土城から落ち延びた信長妻子の中に「御台所」「北の方」の記述が見られ、安土殿(または御局)と同一人物とも推測できる。この「御台所」「北の方」が濃姫だったとすると、本能寺の変の翌日であることから考えて、変時に彼女が本能寺にいたとするのは時間的に無理がある。

結婚後は歴史の表舞台に一切名を残さなかったせいか、病弱説や離婚説、奥を取り仕切るだけの器量がなかったなどという評価がなされる事があったが、実際は信長の閨房における醜聞が一切表に出ずきちんと取り仕切られていたことから、決して無能な女性ではなく一正室多側室多愛妾多伽係という当時の奥制度をきちんと管理出来る女性だったと考えることもできる。

また婿である信長を美濃国の後継者と定めた道三の国譲状がある以上は、濃姫を正室としておくことが信長にとっても必要不可欠であった事もあり、その道三と対立した、兄・斎藤義龍筋の斎藤氏との諍いにより離縁して実家に返したという可能性は考えられず、美濃攻略を推し進めて行った背景には道三の息女であり、また土岐氏の傍流明智氏の血を引く濃姫の(義龍が道三実子であった場合、土岐氏と血縁関係はない事になる)、婿である信長こそ正統な美濃の後継者であるという大義名分があったためという推測も成り立つこと、美濃攻略後に美濃衆が尾張衆と同様に待遇されていることからも、濃姫が美濃攻略前に病気などで亡くなったという可能性も少ないと思われる。

信長嫡男の信忠は濃姫が養子にしているが、濃姫があえて信忠を養子に迎えた理由として道三の国譲状により信長の美濃支配の正当性はあるものの、斎藤氏、土岐氏の血を引く濃姫の子供が信長の嫡男であればより円滑な美濃支配と後継者の正統性を強調できるためではないかと思われる。事実、信長は家督を信忠に譲り、美濃と尾張の支配を信忠に委ねている。

〈後略〉


と言う事で、《織田信長》とその家族や、尾張の地方領主に過ぎなかった風雲児が、ほぼ一気に天下の武将として名を挙げた!その紛れもない初めの一歩が、当時国境を接して小競り合いを繰り返していた、美濃の国の領主・斉藤道三との一時的な和睦としての政略結婚(1549年)。
しかしそれは決して一時的なものではなく、この後の日本の歴史を大きく変える、実に見えざるささやかな第一歩でした。もしこの政略結婚により、信長が道三から「国譲り」をされなければ、結果として次の「桶狭間」がどうなっていたかは、まったくわかりません。

同時に地方領主から、急速に勢力を拡大し戦国武将として名を挙げる信長にとって、その家臣団との関係は血族や先祖からの因習とは無縁の現代的な相互利益と個人や家族との信頼?関係で成り立っていました。
だからこそ、応仁の乱(1462年勃発)以来の足利幕府の崩壊による、下克上の戦国時代に於いても非常に珍しいしかし当事者にはそれしかない?当時としては、ある種奇妙な?臣下と君主、部下と上司の関係が、形作られたのだと思います。


信長書状

〈徳川博物館公開時・カラー〉

信長書状02

〈現物のモノクロ複製〉



社長のための経営とコラム&NEWS!

歴史の交差点

第37話信長の優しさと気配りより書状の現代語・意訳。

信長の優しい側面や気配りがが窺える、貴重な史料があります。
信長が秀吉の正室のおね(ねね)宛てに書いた手紙です。おねが安土城 にいる信長のところへ手土産持参でご機嫌伺いをして帰った後、おねに出した御礼の手紙です。
現代語に訳すと、次のようになるそうです。

「そなたが仰る通り、この度はこの地へ初めてやってきて、お会いできて嬉しく思いました。特に頂いた土産物の美しさはとても目に余るほどで、 筆で表現しきれるのではありません。祝儀代わりにこちらからも何かをあげようと思いましたが、そちらからあまりに見事な品を持ってこられ、特に志を示す方 法もみあたりません。ともかく今回は品物を贈るのはやめておきます。また次ぎに来た時に、お返しをしましょう。」

「とりわけそなたの容貌、容姿は、いつぞやお会いした時、十であったものが二十ほどに見上げたものに美しくなっています。藤吉郎(秀吉)がしき りとそなたを不満であると申しておるとのこと、言語道断、全くけしからん事です。どこを探してもそなたほどの女性はまた再びあの禿鼠(はげねずみ)には求 め難い。これから後は、立ち振る舞いに用心し、いかにも正室らしく重々しくふるまい、悋気(嫉妬)などに陥ってはなりません。」

「とはいえ女の役目でもあるので、夫の女遊びを非難してもよいが、言うべき事を全ては言わないでもてなすのがよいでしょう。なお、この手紙を秀 吉に見せるようお願いします」


《原文の現代語表記》

「おほせのことく、こんとハこのちへはしめてこし
けさんニいり、しうちゃくに候、
ことにみやけ色々うつくしさ、中々めにもあまり、
ふてにもつくしかたく候
祝儀ばかりこの方よりも、何かやらんとおもひ候らへば、
その方より見事なるもの、待たせ候別に心ざしなくのまま、
まずまずこのたびはとどめ参らせ候。
かさねて参るの時、それに従うべく候。」


「それのみめふり、かたちまて、
いつそやみまいらせ候折ふしよりハ、
十の物二十ほともみあけ候、
藤きちらうれんれんふそくのむね申のよし、
こん五たうたんくせ事候か、
いつかたをあひたつね候とも、
それさまほとのハ、又ニたひかの
はけねすみあひもとめかたきあひた、
これよりいこハ、みもちをようくわいになし、
いかにもかみさまなりにおもおもしく、
りんきなとにたち入候てハ、しかるへからす候、」

「たたし、おんなのやくにて候あひた、
申もの、申さぬなりにもてなし、
しかるへく候、なをふんていに、
はしハにはいけんこひねかふものなり、又々かしく、」

             のぶ《朱印

    籐吉郎おんなども


専門家でも驚くのは、この手紙の内容自体も〈元は大きくない町工場で、社長も社員も家族ぐるみの付き合いがあったとは言え、社長(あるいは同じく昔なじみの社長夫人(この場合は当然濃姫・濃御前!あるいはもう安土御前?も同席していたのかも……)に向かって〉夫の女性関係、つまり家庭主婦として家庭内での、夫の所業として愚痴を堂々と、当時も秀吉の正室であった御寧々(おねね)が、恐らくは蕩々と述べたのだろうと言う事です。
この時、安土城の築城と同様に秀吉もまた長浜城の城主となり、かなりの憂かれ邦題で、女漁り(秀吉の場合、「遊びなどというレベルではなかった」らしい)にうつつを抜かし、かなりやりたい放題だったよう。

まァ、これまでの苦労が報われたのだからと、正妻の寧々殿も我慢していたんでしょうけど、たぶんこの頃なんでしょうねェ~、秀吉の最初の子供阿生まれたのは……(この時代に同じ女性からかどうかはわかりませんが、一男一女を設けているのは間違いないようです。不幸な事に、いずれも早逝だったそうです)。
有名な話しですが、後には北の政所として豊臣政権を支えた、女丈夫寧々様もその夫の主君正夫人・安土殿とも言われたらしい、濃御前同様子供に恵まれなかった事が共通しています。
この、エピソードもそんな戦国の世の「出来る男」を亭主にした正妻同士、通じ合うものがあったのかも知れません。その為に、夫の不行状を訴えられた社長である信長も、ある種困り果てたのではないでしょうか?記録によれば、信長にはこの当時20人を数える女性が、揃って居たとか居ないとか……。

という訳で、上記の有名な《信長からお寧宛の書状》となりますが、良くこんなものが幾人幾世代もの手を得て、今日に残ったのか不思議な驚きです。
これがあったのと、無かったのでは完全に、今日の織田信長像はもちろん、秀吉夫婦から織田軍団全体のイメージまで、違っていたのだろうと思います。
なお、専門家に言わせるとこの書状の内容も、とても当時の大々名の当主が優秀かも知れないけれども、単なる部隊長クラスの家臣の、しかもその細君に宛てて書く事自体が、超特大に異例だそうです。まァ、そうでしょうねェ~。
しかも内容は、その細君を褒めちぎり、「素晴らしいモノを贈って貰ったので、今すぐにはお返しが出来無いから、次の機会にさせて欲しい」などとは、言い過ぎではありませんか?しかもこれも専門家の分析ですが、女性でも読みやすいように簡易な文章で、しかもカナ文字を多く使っている点が特徴だとか……確かに、秀吉の直筆がカナ釘流だったのは有名な話しですし、寧々は秀吉よりも良家の育ちですから、読み書きは出来たでしょうが、そりゃ上流階級レベルではなかったでしょう。

そしてトドメが、信長直筆の署名のぶ(この当時、親しい者同士の書簡では、直筆署名が名前の一文字と言う事はよくあったそうです)」の後にキッチリ押されている、《御朱印》これは、主君からの書状だろうが何だろうが、受け取る側には「公文書」と、同様の意味を与えるそうです。
ですから最後の「この手紙は籐吉郎にも見せるように!」の一文が、威力倍増です!!

文字通り、受け取った籐吉郎殿にとっては、「シャレにならんッ!緊急事態……だったでしょうネェ~。
文字には何も残っていませんし、その当時濃御前自身がどこにいたのか?すら、未だにハッキリとはしていませんが、もし安土に居たのなら事の一部始終に、関わっていたのでは無いかとすら、思えてしまいます。
何であれ、飽くまでも細君への「贈り物への礼状」に、まさか主君の命令書に等しい「朱印」が押されているなどとは、さすが後の天下様豊臣秀吉にしても、予想だにし無い事でしょう。
そしてこの件前後の、秀吉夫婦と濃御前が居たとしての、信長夫妻の様子を想像するともうおかしいやら楽しいやら……天下の、「リーダーは信長タイプが良い&信長が理想の上司」という、組織の人々よ。
彼と彼周囲(家族)及びその部下と家族(与えられた部隊)の関係を、もう一度良く検証してみる必要が、あるように思えます。冷徹非情な合理主義だけでは、恐らくあれだけの事をあれだけ短期間には、成し遂げられなかったと思えます。
同時にそれは後の豊臣秀吉にも、言える事だと思います。晩年にいたるも、実母と正妻・寧々には頭が上がらず、文字通り「尻を蹴飛ばされ」て這々の体で逃げ出した事も、少なく無いという話しです。

最後に、山岡荘八氏の「織田信長」ですが、実際にTV番組になるよりも以前から、「これは実際には『濃姫物語』だろう!?」と思っていた事を、重ねて強調させていただきます。


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本来は、『あんのんブログ・HINAKAの雑記』としてSo-netブログであったものが、So-netブログから追い出されて、ここで新たに構築するモノです。

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