0戦神話に対する子供の頃からの謎が図らずも……!



2つ前の記事になりますか?幼い頃から大好きだった、零戦(ぜろせん・れいせん)神話に対する不信感が、長ずるに連れ大きくなっていました。
その様々な懸念や疑問が、大いに払拭された気がします。たまたま『旧日本軍弱小列伝リンク済み』の記事を読み、あろうことか「0戦」の部分だけ、勝手に全文引用の記事にしてしまいました。
実際に、本家本元のサイトを見ていただく方が、遙かにマシだと思うのですが、自分がいわゆる記事中の「リンクだけ」をクリックする事に、躊躇いがあるのでどうしても、必要な部分は記事として載せておきたいと、勝手に思い込んでいます。

まず、疑問というか問題として、一番大きかったのは「それほど高性能な戦闘機があってどうして簡単に敗退していったのか?」です。
もちろん根本的な原因は、圧倒的な技術力と生産力を持つ国が、その気になれば現用機は当然の事ながら、次々と新鋭機を量産し、前線に送り込む事が出来た事だと言う事は、良く分かります。ヨーロッパ戦線であれほど活躍した、爆撃機B-17を、太平洋戦線に回すよりも、より大きく高性能な高高度、渡洋爆撃機B-29を、新たに製造して送り込む方が手っ取り早くて確実という、合理的にも程がある戦略。
結果的に、B-29と太平洋戦争が生んだ最高で、そして最後のレシプロ戦闘機と言われた、P-51・ムスタング。さすがにこの機体を、当時はまだ弱小のベンチャー企業だった会社が、いかに天才飛行機設計技師がいたとは言え、「200120日以内に作ってみせる」と言い、実際に117109日目には試作機を完成しています(技師は「もっと早くできるとは言ったが、200120日以内とは言っていない!」と、後で愚痴をこぼしたようですが……)。
この驚異的な設計と製作を行った、主任設計技師に関しては詳しい事が良く分かりません。このまだ弱小だった、ノースアメリカン社の社長が、その才能に惚れ込みドイツから亡命と言うより引き抜いたのは、確かなようです。しかし後に彼が、メッサーシュミットの設計に携わったとか、その時持ち出した資料を基に、P-51を設計したとか言われているようです。
しかし、彼自身は日本で言えば夜間中学卒で、ドイツでは「確かにメッサーシュミットの部品を作る、旋盤を回していた」と自嘲気味に答えています。どこで、米国の新規航空機メーカーの社長の目に留まり、若くしてのその才能に目を付けられたのかは分かりませんが、実にアッサリと米国に渡航できた事から、さほど重要な人物とも才能とも思われていなかった事は、容易に想像は出来ます。
当然、その彼が持ち出せる資料など、もはや国外に知られているも同然のような、モノばかりだったのでしょう。そもそも持ち出せたのかすら、疑問です。

ただ当然、次のような異論は出るでしょう。


 本機(P-51)の形態や構造をみると、とうてい120日やそこらでできあがった機体とは思われない。
 液冷発動機にぴったり合わせた流線型の非常に美しいライン、舵面の振り合い、細部まで行き届いた空力設計、軽量で量産向きの構造―――これらはノースアメリカン社か、シュミード技師かが、すでに腹案というよりも、できあがった基礎設計をもっていたものと考えられる。
 これにイギリスの設計要求で若干の修正をおこない、昼夜兼業で試作用の図面を画き、部品はいきなり原図を画いて、図面ができるそばから製作していったものであろうと想像する。


堀越二郎



ただ確かに、これは引用元にもあった言葉ですが、「~15ヶ月で試験飛行を開始した、お話にならないほどの技術小国だった日本の某戦闘機にも〈中略〉そしてそれは果たして日本で生まれたものなのでしょうか?」という疑問は、当然のように起こるでしょう。


何しろ工場で試作機を作ったは良いが、試験飛行をする為の
飛行場まで運ぶ手段が無くて(当時舗装道路が普及せず、
大型のトレーラーもなかったから……)、
なのに飛行機のエンジンは作られた?





〈前略〉

なお、本機の外見は零戦とよく似ているとし、性能値に漸近した点が話題になることもある。


零式艦上戦闘機れいしきかんじょうせんとうき』(リンク済み)より

〈前略〉

グロスターF.5/34が前近代的な鋼管骨組み構造であるのに対し、零戦は九六式艦戦と同じ応力外皮(モノコック)構造であり、コピー説は否定されている


という意見もあると言う事で、改めてこの2種類の機体を見比べてみます。

グロスター F.5/34

英F5三面


零式艦上戦闘機 21型』 

零戦三面図


更に0戦21型(米軍接収マーキング版の写真)とF.5/31の最も大きい違い、収納式主脚部を修整した写真で見比べてみると……。


英F5写真

零戦比較

なんかもう本当に、「マネをしていない!偶然だ!!」だと言う方が、苦しくなります。
そして遊び心?で、このF.5/31に0戦の塗装をしてみると……。


F5零仕様

とは言え、見かけはともかく内容的には全く異なる飛行機では、あったようです。
残念ながら、悪い意味でですが……もっとも異なるのが、0戦で有名な軽量化の為の穴だらけ軽合金の、骨組みです。F.5/31はこの時点で前近代的な、鋼鉄パイプ製の骨組みです。これは、余り軽量化を重視していなかったためと、考えられます。

この時点で注意しておかなくてはならないのは、世界的にはいわゆる軽量な戦闘機で、アクロバット的な飛行し、敵戦闘機と撃ち合う。
という言わゆる「格闘戦闘能力」は個人技であり、1度に1機に対して2機を1組で相手にすれば、例え2機の飛行技術が未熟でも、充分互角に戦えるという戦術理論が確立していたそうです。つまり、低空低速での旋回性能よりも、より高速でより上昇性能の高い戦闘機が、求められこれを「重戦闘機」と呼びます。
重戦闘機のもう一つの特徴は、大型で強力なエンジンやその速度や操作性に耐えられ、しかもパイロットと燃料や弾薬を守るための防弾性能から、文字通りに軽戦闘機に比べて機体が重くなるという必然性です。


メッサーシュミット(独) スピットファイア(英)
Bf-109・G        Mk・Vb

重量 3,150kg      3,010kg
出力 1,800馬力    1,470馬力


これに対して、ほとんど偶然かどうかはともかく、大きさその他の緒元が一致する0戦21型とF.5/31を比べてみると、なぜイギリスがスピットファイヤーにしたのかが、良く分かります。


   零戦21型    F.5/34(英)   

重量 2,421kg   2,479kg 
出力 940馬力    840馬力  



但し、圧倒的に0戦が有利だと思われた性能が、2つあります。
しかし、このうちの1つはかなり早くに、当の0戦の歴戦のパイロットで戦後まで生き残った人の証言で簡単に潰え去りました。それは、20ミリ機関砲弾2丁の搭載です。

当時の戦闘機の主流が、ドイツのメーシュミットやイギリスのスピットファイアだとして、どちらもが構想はあっても結局実戦配備しなかったのが、20ミリ以上の機関砲です。
確かにこの機関砲、1発当たれば戦闘機はひとたまりもなく、爆撃機さえ戦闘不能に出来ると、考えられていました。飽くまでも、当たれば!ですけど……。
20ミリ機関砲が、なぜ機銃ではなく砲なのかと言えば、現代では便宜的に口径が20ミリを超えれば「砲弾」とするようになっていますが、そのルーツはこの当時から20ミリがあれば、炸裂弾が使える!と言う事が、大きな魅力だったと言います。

つまり0戦の20ミリ機関砲には、爆薬の詰まった砲弾が装填されていたのです。
相手が、黙って逃げ回るだけで撃たれてくれるのであれば、その効果は絶大ですが実際にはそんな事はなく、戦争が始まってみれば爆撃機よりも戦闘機を相手にする方が、遥かに多くなっていたそうです。となると、もし仮に1発でも敵の弾がこの弾層部分に当たると、簡単に誘爆したそうです。元々軽量化の為に、外板も削りに削って薄くしてあったそうです。
更にパイロットの命を守る思想ではなく、機体の軽装を優先した結果コクピットの風防ガラスはもちろん、周囲の外板すら防弾装備されていない状況で、どうして弾層に防弾装備や消火装置を、付けておくでしょうか?当然そんなモノは、ありません。
ですのでそのベテラン・パイロットは、「願わくば最初から装填せずに出撃したかった」という位、自分の機体の弾層が恐くて恐くて、仕方なかったのだそうです。ですので、戦闘開始早々サッサと全弾撃ち尽くして、身軽になりたかったそうです。実際に命中したかどうかは、二の次で……。

さらにこの20ミリ機関砲には、問題がありました。
現在では、様々な形で当時の〈ガンカメラ〉で撮影された映像を見る機会が増えましたが、両側からの7.7mm弾が綺麗な直線を描いて、照準の中央に吸い込まれていくのに対して、20ミリ砲弾は……。明らかに、垂れ下がって行きます。
これには二つの理由があるそうで、まず砲弾内部に炸薬(まッ、爆薬ですね!)を込めた、大きな20ミリ砲弾は当然重いので、その弾道がかなり早く下がってしまいます。これは、かなり以前から知っていましたが、最近の0戦話題の資料で知ったのは、またしてもその機体軽量化の問題。
極限まで、重量を減らした(具体的には薄く削った)主翼は特に初期の21型などは、20ミリ機関砲を撃つと、反動に耐えきれずによじれてしまった!?

この為、20ミリ機関砲はベテラン・パイロットでも、命中させる事が難しい、まして初心者には手に余る重火器だったようです。










「同じ事でも見方が違えば……」の典型例ではないでしょうか?
低馬力の超軽量戦闘機で、戦闘機同士の格戦闘(巴戦)を重視し、その上超航続距離を維持する為に、主翼内を燃料タンクにしています。しかも海軍からの要求に防弾性能が無かったので、機銃弾が一発当たれば発火する可能性があります。そして当然、消火設備もありません。

見方によれば、革新的ですが見方を変えると、超軽量化の為に極限まで機体の外板や骨組みを薄く細くし、その中に詰めるだけの燃料を積むと、言う事です。
大きな主翼は、旋回性能の向上や大型機関砲を、搭載を可能とすると同時に、巨大な燃料タンクでもあります。この為、その翼面積の広さを支える内部の骨組みは限界まで薄く細い上に、翼端から同体方向にしか延ばせません(翼を横切る骨組みを入れると、燃料タンクの邪魔になります)。
その為、「艦上戦闘機」なのに翼の両端しか、折り畳めません。








機銃を撃ったら、翼がよじれる?本当かいな!?とも思います。
ですが、実際いわゆる0戦の機体剛性(機体が急加速や急減速、捻りに対してどれだけ耐えられるか?)は、その機動性を維持する為に極限まで、骨組みに無数の穴を開け、鋼板を薄くした為に、かなり弱くなっていたようです。その最も端的な例が、急降下でした。
0戦はある程度以上の、急降下速度には耐えられませんでした。この為、実戦パイロットの言葉として「燃料が無くなると、主翼が20ミリの反動でバタつくので、弾がどこへ飛んで行くのか、分からなかった」と言うのが、あるそうです。
奇しくも、ベテラン・パイロットの「上がったら、なるべく早く撃ち尽くす」という発言の、裏付けとも言えます。0戦の主翼は、現在の旅客機と同じく燃料タンクになっていました。これが最後の、そして最大の疑問の回答だったのです。

0戦は、同時期の他の有名戦闘機に比べて、圧倒的な航続距離を誇っていました。


         標準巡航距離

零戦21型    2,000km

スピットファイア  
Mk・Vb(英)   756km

メッサーシュミット
Bf-109F(独)  570km


理由は主に二つと、言われています。
一つは、当時の戦闘機設計の常識として、主翼内部を燃料タンクにしない!と言う原則が、あったようです。理由は、戦闘機同士で銃撃戦になった場合、最も被弾率の高い場所は、広い面積を持つ主翼に他なりません。
当然、そんなところに燃料を満載していたら、炸裂弾でなくても1発の7.7mm弾で、充分に機体に致命傷を与えられます。当然、燃料は積み込まずに、また積み込むのなら炸裂弾を何発か受けても、飛行に損傷のない主翼(防弾装備や自動消火装置)にするのが、当時の重戦闘機の常識でした。

さらに、燃料タンク自体にも0戦は防弾処置が、ありませんでした。
現在の立場から見ると、呆気に取られるしかありませんが、ここで重要な事は「強力なエンジンを作りたくても作れなかった!」という、歴然たる事実です。0戦のエンジンは、それまでに日本が主にイギリスから輸入したモノの、リニューアルでしかありません。ですから、仮に「軽戦闘機ではなく、重戦闘機で行こう!」という決定がされても、それだけの機体をそれだけの速度で飛ばす馬力のある、エンジンを作る事は現実的に不可能だったのです。

この点を見ると、文字通りあの「戦争」とは何だったのか?
何を目的とし、何を得る為に起こしたのか?その一番重要な部分が疑問に思えていきます
そもそも、この後更に強馬力のエンジンを作るために不可欠な技術である、加給器!今の日本車なら当たり前の、スーパーチャージャーやターボ(厳密にはターボもスーパーチャージャーの一種です)の技術が、この当時の日本には事実上無かったも言えます。
それは当然でしょう、自前では実は現行の戦闘機のエンジンすら、作る事は出来なかったのですから……。さらに言えば、それらのエンジンを造る為の精密工作機や、エンジン・オイルの精製技術などですら、実は戦前の輸入品に頼っていたのです。

当時の工業技術先進国が、刻々と新技術やより精密な工作機械を作り、新たに前線の武器や兵器に投入していったのに対して、日本は既に輸入した工作機械の精度が落ちるとそれを回復させる事さえ困難でした
まして、それらのコピー品では当然、本家の精度を上回る事は不可能です。
大いに認識不足を、反省するところがあります。戦争末期、学徒動員された女子学生が作った部品が、前線ではものの役には立たなかった事を、純粋な工業生産力のみの差だと、信じていた部分がありました。その差を考えずに戦争を起こした者には責任があるという持論は今も変わっていません

しかし、動員した女子学生が使用する精密加工機器さえ、元々輸入物で劣化したのか、コピーモノでそれほどの精度が出せなかったのか?
その可能性を考えた時、あながち「学徒動員」という人材資源の、無能な獲得方法しか採れなかった、政治の無為無策だけではなく、使用する機材や燃料その他の、工業技術の必需品さえ自前で用意する事が出来無いにも関わらず、その輸入先である先進工業国に喧嘩を売った結果を、予測できなかったでは《済むハズは無い!》と、確信します。

さて、0戦の優秀性最後の航続力ですが、これは数字的にはまさに当時の戦闘機の常識を越えています。
しかし、その大きな原因の一つが、防弾されていない主翼内燃料タンクだと言う事は、既に触れました。この結果、笑えない事態も実際には発生し、零式〈艦上〉戦闘機として、開発された0戦ですが……。

子供の頃から不思議でした、どうしてこんな翼端しか折り曲げられないのか?
理由は、もう良く分かります。主翼内が燃料タンクなので、折り曲げたくても無理なのでしょうネ?


零戦翼端

スピット艦上

主翼に燃料タンクの無い、艦載型スピットファイアなら、こんなに折り畳めます!

加えて、当時の水準から行くと既に時代遅れに近い、低出力エンジン。現在の自動車でもそうですが、低出力のエンジンほどいわゆる「燃費」は、良くなります。
逆に、高出力エンジンに過給器まで付ければ、馬力や速度は出ますが、どうしても燃費は悪くなります。と言う事はいかに低出力エンジンとは言っても、早く飛べば当然燃費は悪くなり、最高距離を飛ぶ為にはいわゆる「巡航速度」を維持する必要があります。

この結果、片道約1,000キロを飛んで、戦闘して還って来ると戦闘も含めて、ほぼ8時間以上パイロットは操縦席に、座り放しッ!
食事はともかく、生理現象の方は……そもそもの設計理念に、操縦者の保護を含んでいない、0戦に簡易トイレみたいモノがあるとは思えません。何だかもう、戦争やっているのか、我慢比べをしているんだか、分かりませんネ。
ちなみにカーナビ・レベルもなかった時代です、現在のジェット旅客機に必須搭載の、「自動操縦(オートパイロット)」も無いですから、往復と戦闘の概算で8時間以上、起きて「運転」じゃない「操縦し続け」です。自動車のドライブでも、休憩無しでは「危険」ですよネ?

今の「自家用車」や「ジェット旅客機」に興味を持つようになって以来、どうもいわゆる「0戦神話」が気になっていましたが、全てが真実かどうかはともかく、かなり納得できる答えが得られた、気がします。
それにしても、あの「山本五十六連合艦隊司令長官」が最期に乗っていたのが、0戦以上に「ワンショット・ライター(一発で火が点く)」としてアメリカ軍に知られていた、一式陸攻だというのが笑えます。0戦以上に主翼の燃料タンクが脆弱だったと言う事です。そして、護衛が0戦だったというのも、皮肉です。

暗号を解読して「山本五十六・司令官が来る!」事を知ったアメリカ軍が、当時0戦よりも最高速度はもちろん、加速性能と航続距離で勝るロッキードP-38ライトニングで、長躯して待ち伏せ。
持ち前の、急降下性能を生かしてシャングルの上スレスレを飛行して逃げようとした、司令長官の乗る一式陸攻を追撃、司令長官もろとも撃墜しています。なお護衛の0戦は、全く追い付けずに何もできなかったようです。もっとも、当時アメリカ軍で最も航続距離の長かったP-38ですが、それでもタイム・アウト寸前だった事が、後に確認されています。

ロッキードP-38ライトニング
〈L型・山本五十六司令長官搭乗機撃墜と同型?〉


P-38Y.jpg

P-38三面図


最大離陸重量:9,798kg
エンジン出力:アリソン V-1710
液冷 ターボスーパーチャージャー V12
レシプロ・1,600馬力×2
最大速度:667km/h
最大巡航距離:3,640km



ノースアメリカンP-51ムスタング

〈D型・ノルマンディー上陸作戦・敵味方識別塗装〉


P-51D.jpg

P-51三面図



最大離陸重量:5,490kg
エンジン出力:パッカードV-1650-7×1
         1,695馬力
最大速度:703 km/h
最大航続距離:2,655km (増槽有り)


P-51は第二次世界大戦時に於ける、戦闘機の最高傑作と言われています。
0戦の最終型、零式54型と上記の主な緒元を比べても、この差は歴然です。


最大離陸重量:3,150kg
エンジン出力:金星六二型・1,560馬力
最大速度:572.3km/h
最大航続距離:全速30分+850km


そして、余り問われませんがP-51はもちろんP-38も、どちらも米国陸軍航空部隊の機体として開発されています。

そして、これに「0戦キラー(ハンター)」として有名な米国海軍航空部隊のグラマン・F6F・ヘルキャットを加えても、初飛行や試験飛行はせいぜい0戦と同時期に行われています。
少なくとも0戦を研究してから開発した訳で無い事は、間違いありません。


P-38 初飛行1939年 立案1937年

P-51 初飛行1940年 立案同年3月・初飛行同年9月
F6F 初飛行1942年 立案1938年

零戦21 初飛行1939年 立案1937年

「F6Fは、一般的に零戦に対抗するために急遽開発された機体であるように紹介される事があるが、上述のように開発時期からいっても、元々F4Uコルセアの開発が失敗した場合の保険的な開発であった事からも、これは誤りである。これも上述のように、機体設計からして零戦とは正反対の性格の機体である。」


Zero21.jpg

〈1942年7月、アリューシャン列島アクタン島で
鹵獲された零戦二一型。〉

引用者註:この頃には既にF6Fは完成しています。


この引用を始め、上記の記述も含め機体の性能緒元ほとんどが、〈フリー百科事典ウイキペディアWikipedia〉からのものです。

それにしても、それはそれでむちゃな日本帝国海軍様の、「無い物ねだりの要求!」に、数々の問題はあっても2年足らずで何とか答えてしまった、航空機技師堀越二郎氏は、こんなに有名なのに……。

史上最高最期のレシプロ戦闘機」と称えられる、P-51・ムスタングをほとんど200日足らずで原型初飛行を成功させてしまった、まさに天才と言っていい航空機技師エドガー・シュミュード氏に関しては、「フリー百科事典・ウィキペディア(Wikipedia)」にも詳細はありません。
恐らく後にも先にもこれほどの優秀な飛行機が、これほどの短時間でしかも当時ほとんど無名の、航空機設計技師を擁する戦争特需で、大航空機メーカーの下請的なベンチャー企業が急成長したような、小さな会社。
そんな状況で作られたなどと言う事は、まず空前絶後でしょう!
ちなみ、0戦も老舗の中島飛行機が、余りにも無茶な海軍の要求に、早々に降りてしまった為に航空機製造会社としては新興の、三菱一社に託されってしまったという、経緯があるそうです。

ふーむ、やっぱりエドガー・シュミュード氏の事を知るには、それなりの専門書に当たらないと、無理なようです。



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本来は、『あんのんブログ・HINAKAの雑記』としてSo-netブログであったものが、So-netブログから追い出されて、ここで新たに構築するモノです。

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